Football is Like a Life!!

地域の小学生サッカーチームのコーチしてます。 「サッカーについて」「指導について」 もっと深く深く熟成させたい!そんな想いで書き綴っているブログです。Enjoy Soccer Life!!

「スポーツ」の大いなる誤解。

少年サッカーならサカイク|自分で考えるサッカーを子どもたちに。

と銘打って子供のサッカー事情について連載している『サカイク』。参考になる記事が多く良く読んでいますが、中でも気になる連載を書かれてるのがコチラの方。

岐阜経済大学経営学部教授の高橋正紀先生。ドイツ・ケルン体育大学留学時代から十数年かけ、独自のメソッドを構築してきました。

う~ん、メソッドも気になりますが…

高橋先生はまた、「スポーツマンのこころ」の効果を数値化し証明したスポーツ精神医学の論文で医学博士号を取得しています。

というお方です。そんな医学✖︎サッカーな連載がコチラ

面白そうなタイトルの記事を幾つかご紹介します。 

 この記事では、日本人はメンタルが弱いのではなく、修正能力が低いと結論づけています。そして海外のチームは自分たちでゲームプランを立て直すとも指摘しています。なぜ監督の指示を仰がずにビッグゲームをモノにできたのか?それは子供の頃から『ゲーム』をしているからです。

スポーツはゲームです。

では、ゲームとは何でしょう?

そう、楽しむものですね。であれば、ゲームであるスポーツも楽しむもの。そして、スポーツの語源は「遊び」です。

 

イタリアやドイツなど欧州の人たちにとってのスポーツは、本質的には「遊び」です。「遊びの一種」であることを、彼らは子どものときから理解しています。原則遊びなので失敗を恐れなくていいし、ゲームを楽しもうとします。しかも、全力で。

そしてこの一言がショックです…

そのことは、残念ながら日本では理解されていません。

なぜ…?記事は、日本では『熱血指導』が弊害になっていると指摘しています。

才能のある子どもの親や周囲の指導者は、その非凡さに感動し、舞いあがりがちです。

勉強なんかいい。サッカーで生きていけ。野球で生きていけ。そうなってしまう傾向が強い。そして、そのように大人が熱血指導し、シリアスになればなるほど、子どもたちはスポーツを遊びとしてとらえられません。

さらに、

「楽しめ」「失敗してもいいから」

と言われても、腹の底から安心できません。

自分たちがミスしたとき、負けたとき、大人ががっかりしている(もしくは腹を立てている)ことを知っているからです。

彼らは結果ばかりを気にし過ぎるあまり、プレーに遊びが無くなり、積極性が消え、こころの余裕(理性)を失います。全力で楽しめません。

と続きます。バーンアウトの原因ですよね。

これは推論ですが…

  • 指導者の多くがプレーヤーだった頃に受けた指導が、パワハラ暴力全盛期の『体育会系』だから、最初に出会う指導者が大抵『体育会系』で、指導者になった今、自分の手法は一般的であると思っている。
  • 『体育会系の指導』は、『遊び』とは正反対で命令違反や失敗は許されず、過去に日本の教育がスポーツを『組織訓練』として利用してきた名残が今も残っている。
  • 上記のサイクルが断ち切れない個人・組織が負のサイクルを継続している。

いささか偏見が入っているかもしれませんが、自分が中学生の頃はそんな名残があったような気がします。私はサッカーを始めたばかりだったのですが、他の部員は小学生からサッカーチームに所属し、自由にプレーをしていたので、この『名残』に対抗してサイクルを断ち切り、自分達なりに道を切り開いていた気がします。 

 先程、低学年担当のコーチから大会オファーの話を頂きましたが、その名も『サイレントサッカー』…監督も保護者も口を出さず、選手だけでメンバー決め等をして臨む大会だそうです。歓迎すべきレギュレーションであると共に、周囲の過熱ぶりが目に余ることが背景なのかと勘ぐってしまいます。そして、こんな記事もありました。

暴力・暴言を正当化する解釈があり、しかも当事者は善意であると信じているので根深い問題と指摘しています。そして、

スポーツは、ルールの範囲内でとことん真剣に勝ち負けを争う事を楽しむのだ、という正しい理解ができていなかった点は否めないでしょう。

としていて、その背景には、

明治維新に欧米から日本へ入ってきたスポーツにはゲームとしての勝敗というものがあったため、それが武士道精神の「負けることを恥」と感じてしまう精神性にひっかかってしまい、エンジョイ=楽しむことを中核に持つゲームであるスポーツで負けることに対しても過敏になってしまったと考えられます。

これはルース・ベネディクトが書いた「菊と刀」という日本人論をまとめた本の中にも書かれていますが、日本人は他者に対する「敗北による恥」に過敏で、敗北した場合の落胆が欧米に比べ非常に大きいということなのです。

負け=恥の『武士道精神』と結びついたのでは、としていますが、この一節は腑に落ちますね。

そして、その他者に対する「負けることを恥」と感じる感性が強すぎた結果、スポーツをエンジョイする、楽しむという部分が、なかなかスポーツの考え方の前面には出てこなかったのです。

負けて恥をかきたくない、というマイナス志向では当然楽しめないですよね。スポーツを誤解する土壌がここにあったのではないか、と言えます。

 負けも含めてサッカーを楽しむには、リーグ戦であれば、シーズン中に何度もトライ&エラーを繰り返し、負けの原因を突き詰め、修正してリトライし、克服するというサイクルで達成感を味わえることでしょう。しかしトーナメントを主体にする、試合チャンスがなかなか巡ってこない日本のアンダーカテゴリーでは、そんな喜びを味わえるチャンスが非常に少ないように感じます。選手、監督ともに…そして、記事はこう締めくくられています。

そこには、子どもたちの楽しさを人質にして、大人たちの勝ちたいという欲望を満たしたと言われても仕方ない側面が多分にあると思います。スポーツは、ルールの範囲内でとことん真剣に勝ち負けを争う事を楽しむのだ、という正しい理解ができていなかった点は否めないでしょう。

 

暴力も暴言も、指導者として悪気を全く感じずに行っている事例が見られます。

だからこそ、矯正することが非常に難しい。この問題の根は非常に深いということを、私たちは理解する必要があるのです。

勝利の追求は誰しもすべきですが、指導者の勝利への欲求を手段を選ばず押し通すのは、自分がチームを勝たせたという過信、自己満足に近い行為ではないでしょうか?

過去、自分もその過ちを犯したことはあります。だからこそ、もう間違えたくないです。

スポーツの持つ教育的な力は、ゲームを楽しむために、自分を磨くこと、ライバルを含んだ仲間と切磋琢磨し高め合うこと、ルールを順守してフェアに闘うこと、真剣にベストを尽くすことなどに"自己決定"の下で取り組んだ時に最も大きくなるのです。

 

そこに指導者の暴力や暴言での強制の入る余地は全くないのだということが理解されなけらばならないでしょう。

近年、この想いは私の中で次第に深まり、強くなっています。そして日本の片隅で叫び続けますが…

『日本サッカーにリーグ戦文化を!』